2013年11月4日月曜日

河北門 佐久間盛政展

金沢城の河北門の中で、佐久間盛政展をやっていたので見に行った。




















盛政は初代の金沢城主でありながら、金沢の歴史上あまりスポットライトを浴びていない。どういう人だったのかと思っていたが、この展示会でかなり分かってきた。
それまでこの地を支配していたのは一向宗が中心の「金沢御堂(みどう)」であったが、これを叔父の柴田勝家と盛政が攻め落とし、現在の金沢城を整備し、御坊を城に作り変えた。しかし盛政が支配していたのはたった3年間で、その間もいくさにあけくれて、あまり城の整備はできなかったようだ。
今回は大分県の竹田から来られた佐久間家の子孫の方が詳しく説明された。




















盛政は190cmを超える大男だったという。信長から猛将と言わしめたほどいくさにめっぽう強かった。信長が本能寺の変でなくなった後、豊臣秀吉と柴田勝家との賎ヶ岳の戦いの時、盛政は先陣をきって秀吉方の中川清秀の陣を打ち破ったが、深追い過ぎて秀吉軍にやられてしまった。この時、前田利家、利長父子の軍が盛政の後から援護する役だったが、戦線離脱したから盛政がやられてしまったという。これが賎ヶ岳の戦いの勝敗を分けたという。




















盛政は秀吉から「一国一城を与えるから力を貸してほしい」と言われたが、盛政は「生きていれば何度も貴様の首を狙う」と応じなかったため、宇治の槙島で処刑され、さらし首になったという。





















盛政には一人娘の虎姫がいたが、秀吉の命により敵方の中川清秀の子秀成に嫁いだ。しかし、家臣の反対もあって豊後国岡城(竹田市)には一度も行かなかったという。その後、虎姫の子が竹田で佐久間家を再興した。




















展示場で子孫が大事に保管していた虎姫の木像を見ることができた。




















また、あの有名な滝廉太郎の「荒城の月」は豊後竹田城をモチーフとして作曲したことや幕末の蘭学者の佐久間象山が一族であったこと等の関連資料が掲載されていた。




















最近金沢の「百万歩の会」が、佐久間盛政の縁で九州の竹田市を訪れ交流したことが紹介されていたが、これをきっかけに佐久間盛政展が実現したらしい。
戦国時代は悲喜こもごものドラマがあって非常に興味がつきない時代だ。

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