2014年6月18日水曜日

新竪町商店街(2)

前回の続きで、新竪町はもともと門前町として育ち、その中心が土蔵御坊として知られる「徳栄寺」で、その周りにだんだん商店が並ぶようになったという。
この寺はかって佐久間盛政の軍勢によって壊されている。その後、味噌蔵町にあった味噌蔵の用材を持ってきて仮本堂を建てたので土蔵御坊と呼ばれている。




















この商店街の真ん中あたりに、建物が町屋の「町のお魚屋さん」である「中央生鮮食品」には、色艶の良い、大きな鯛や八目が並んでいた。主人に聞くと「ちょうどここの石浦神社が、今お祭りなので置いてある」と言っていた(5月7日)。この主人と話が弾み、私が昔住んでいた家の隣の人と高校の同級生であり、よく知っているということだった。それで私より5歳上ということが分かったが、とてもその年齢には見えなく、明るく元気そのものだった。やはり体をよく動かす魚を扱う商売をやっているからかなあと思った。町中の魚屋は、いまどき大変珍しいと言っていた。








































また、この通りのわき道に新竪町小学校の建物が見えた。その傍らに「三宅雪嶺」の生家跡を記す碑があった。
三宅雪嶺は近代日本を代表するジャーナリスト、哲学者であり歴史家でもある。明治政府が欧米をモデルに国づくりをしようとしていたことに反対し、日本の伝統に根ざした国粋主義を唱えた人である。「真善美日本人」で「自国のために尽くすことは、世界のために尽くすことである」と説いた。
文部大臣、京都帝大総長を断り、執筆を続けたという。




















新竪町小学校は政治家の永井柳太郎や四高の三太郎の一人と呼ばれた国文学者の藤岡作太郎など優秀な人を輩出している。ここも中心街の他の小学校と同じで、最近は児童の数も減り、菊川小学校と統合されるという話を聞いたことがある。




















次に、コーヒを飲んで一服しようと思って近くにあった画廊として使え、ピアノとギターが置いてあるカフェに入ったが、「いつも店をやっているママが体調を崩しているので今日は休みです」といわれた。
それで、「パーラー・フコク」という店に入ってコーヒを飲んだ。ここの店はどちらかというと、ワイン、ウィスキー、ハイボールなどが店の周りに並べてあったので、アルコール類を飲む店なので客は夜のほうが多いのか?
若い男女(夫婦かどうか分からないが)の人がやっていて「どうしてここには骨とう品屋が多いのですか」と聞いたが、「分からない」ということであった。長いことこの辺にいる「お魚屋さん」に聞けばよかった。






















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