2014年9月30日火曜日

香林寺

先日(9月18日)の新聞に、禅寺「香林寺」の彼岸花が見ごろであるという記事が載っていたので行って来た。ここは、最近「願掛け寺」として有名で、恋や結婚に効果があるということで若い女性など観光客が多くなってきている寺だ。
香林寺は、1653(慶安4)年に加賀藩家老の青木五兵衛が3台藩主利常に願い出て、長岩和尚を開山として建立された。現在の本堂は江戸時代末期に建てられたという。




















歴代の住職は病気や悩みに苦しむ人々を本堂左に安置される霊薬不動のお力を借りてお救いになられたという。ご本尊「釈迦無尼仏」でお参りしたが、カメラ禁止だった。





















本堂内にある地蔵菩薩も安置され「お子抱き地蔵」と呼ばれ、安産、子授け、子供に関する願い事を叶えるために多くの人が参拝されるという。地蔵のお腹あたりに小さな地蔵が乗っている。


























座敷には、友禅作家で人間国宝の木村雨山が子供と一緒にここに2年間くらいいたらしいが、願掛けが叶ったお礼に残した色紙が飾ってあった。








































座敷の奥から庭がきれいに見え、ここで住職が願掛けが叶う「幸福の道」と名づけられた庭の廻り方を説明してくれた。




















「幸福の道」には、十二支像と白不動が安置されているが、まず道を2周して、3周目に自分の干支の前に行き合掌してお参りし、最後に白不動さんで祈願すると叶うという。相手がいる場合は
そのお相手さんの干支にお参りするとよいとのことであった。




















干支の像には、恋愛や結婚祈願、健康祈願、合格祈願などの願いを書いた色とりどりのタスキがたくさん掛けられていた。


























白不動に触ると美白になれるとか。




















白不動の脇には、今が見ごろのきれいな白い彼岸花が咲いていた。





















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2014年9月25日木曜日

幸町、菊川界隈(3)

幸町、菊川界隈(2)の続きで、その後下菊橋が架かっている大通りに出た。橋の向こう側に「不老坂」や「辻家庭園」の建物が見えた。




















下菊橋から桜橋方面




















大通りの向こう側を渡ると「菊川町小学校」がある。「菊川」は犀川の雅名が菊水川といったことからこの名が付いたという。犀川は普段は静かだが、いったん大水になると暴れ川になったので、いつからか犀川になったという。犀川は全国にいくつかあるが、どれも暴れ川のようだ。














































藩政期に加賀藩の政策として当初、芝居、遊興を禁止していたが、町の商業活性化の一環として1818(文政元)年に芝居小屋が、1820(文政3)年の12代藩主斉広の時に茶屋街が公認され、この「菊川町小学校」のところに芝居小屋が、また、犀川、浅野川付近に茶屋街が設置されたという。
芝居小屋は全国的に飢饉となった1833(天保9)年に一旦廃止されたが、文久(1861~64)ころに再興された。文政の頃には名優とうたわれた歌舞伎役者で宮腰出身の初代中村歌右衛門が出た。















金沢市史より




信号のある小路に入ると趣のある古い建物の「平木屋旗店」があった。店と向かいにある建物は登録有形文化財だそうで、店の前面にある蔀戸(しとみど)が残っている江戸末期の町屋様式の建物で、母屋のほうは足軽小頭の住居だった。昭和のはじめにこの平木屋が買って住居と仕事場としてそのまま利用しているという。旗や纏などを染めている染物屋だ。店の人と話をしたかったが来客中のようで遠慮した。








































染物の工程の中で「糊落とし」という作業があるが、「友禅流し」と同じで水の流れを利用して行われる。これを母屋の裏にある鞍月用水を使ってやっているという。




















また、少し歩くと「藤棚白山神社」があった。拝殿の前には藤棚があり、4月中旬から5月上旬に来れば藤のトンネルをくぐりお参りするということになる。








































境内には藤を見て詠んだという江戸時代の俳人 堀麦水の句碑「門には侍 籠のあけびや 藤の花」があった。当時から花見客で賑わっていたのだろう。


























神社の近くに店の上の看板に天保年間に創業で「ゴリ」と書いてある「白山屋」という店に入った。




















おかみさんが出てきたので店のことやこの辺りのことについて聞いたが、非常に親切に対応してくれた。ここでは「ゴリ」の佃煮や「くるみ煮」などを専門に売っているという。昔はすぐ近くの犀川で採れたものだが、今はいなくなって琵琶湖で採れるものを仕入れているという。
そういえば私の子供の頃はよく「ゴリ」の佃煮を食べたものだが、最近はあまり口にしていない




















店内には、大正時代のものという店の紋の木の箱(何というものなのか?)や提灯それにどこどこの料亭に出したことなどを記入した帳簿が下がっていた。




















次にその横の小路にある菓匠「百万石花園屋」の店に入った。





















ここは創業40年くらいだという。多くのおいしそうな御菓子が陳列されていた。他にも店を出しており、後で家の者が言っていたが、ここのお菓子は私の近くのマーケットでも売っているとのことだった。




















ここで今一番売れているという「萩だんご」と「栗饅頭」を買った。





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2014年9月20日土曜日

幸町、菊川界隈(2)

幸町、菊川界隈(1)の続きで、その後、少し歩くと藩政時代の広見である「川上広見」に出た。ここは六つの通りに分かれていた。こんなに分かれているところも珍しい。




















広見の前に銭湯とお寺「覚源寺」が並んでいた。町中の銭湯は珍しいが、現在もやっているのかよく分からなかった。




















「覚源寺」の横の通りを歩くと、「永井善隣館保育所」があり、その前に「永井柳太郎」の銅像があった。








































その隣には、ディーサービスや菊川社会福祉評議会などが入っている「永井善隣館」の建物があった。




















「永井柳太郎」については、このブログでも何度か書いたと思うが、永井道雄元文部大臣が実父で、戦前に拓務、逓信、鉄道の各大臣を務めた雄弁政治家であった。わずかにびっこをひき、ステッキを片手に大衆に語りかけるポーズがトレードマークになっていたという。郷土の英雄で社会福祉活動にも力を入れて、今でもこのように「善隣館」が引き継がれている。

その横には、昔の家をきれいに改装された「足軽の家」があった。閉まっていて中に入ることはできなかったが、「旧早道町」にあった「足軽の家」は2軒長町に移築されていて、一般公開されているので、そちらの方は何度か中を見たことがあるが同じようなものなのかどうか?
ここは、今、地域のサロンなどにも利用されているらしい。




















この辺りは藩政期に「主馬町」(しゅめまち)と呼ばれ、鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったことからその名が付いたという。小立野台地に住んでいた篠原一孝の娘を本庄主馬宅に嫁に出すということで「嫁坂」を作ったということで有名だ。


























近くに鞍月用水があり、満々と水が流れていた。用水に架かるしゃれたデザインの橋もあった。




















































「川上広見」のほうへ戻り、犀川方面に歩くと浄土宗の「法然寺」がある。ここで有名なのは何といっても「お銀と小金」の話だ。




















お銀と小金は異母姉妹で仲が良かったが、継母はお銀ばかりいじめていて、しまいに深い穴に突き落として死なせてしまった。仲の良い小金も哀れんでその後穴に飛び込み亡くなった。お銀を憎むあまりかわいい小金まで殺してしまった継母は涙を流し後悔し、懺悔し自らの髪を切って子供たちの冥福を祈る長い巡礼の旅に出たという。
その「小金形見地蔵」が境内にあった。この地蔵は泉鏡花の名作「照葉狂言」の題材にもなったという。




















また少し歩くと藩政期末に建てられた「鍋屋」という町屋があり、中の部屋は代々染物屋の特徴があるという。この辺では珍しく改修されたきれいな建物が残っていた。

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2014年9月15日月曜日

幸町、菊川界隈(1)

以前に骨董通りの新竪町を散歩したが、今回は本多通りを横断しその向こうの幸町、菊川界隈を歩いた。
藩政期以前の石浦七ヶ村といわれた頃はたびたび洪水でひどい目にあったが、今は犀川ダムにより水害の心配はほとんど無くなたったという。




















この辺は点々と店があるが、ほとんどやっていないようであった。店を開いていた「河上とうふ店」に入ったら、おかみさんが出てきたので少し話をした。店の前のほうには、とうふ、あぶらあげ、こんにゃくなどが並べられていた。




















この辺りは昔、通りをまっすぐ行くと、新竪町、竪町の向こうに大和デパートがあり、八百屋、魚屋、洋服屋など商店が建ち並びにぎわっていたという。その後、大きな通りが近くにでき、また、大和も移ってしまってから行き交う人が少なくなり商店も少なくなってしまったという。
ここの豆腐屋も、昔は朝方非常に早く起きて豆腐などを作っていて忙しかったという。




















その近くに、店内に醤油、味噌やソースそしてウィンドーケースの中に皿に盛った佃煮などの珍味が並べてある店に入った。おじいさんが出てきたので話をした。「私は90歳になる。夫婦二人だけで住んでいて息子たちは都会に行ったままである」と言っていた。「店を開いていれば誰かお客さんが入ってきて話ができるからやっている」と言っていた。




















その隣には米穀店があり、向かい側にもあった。最近はスーパーで米を売っているので、今はどのような商売をしているのであろうか?そしてその隣には「幸田楽器店」があり、邦楽の三味線や琴が並べてあった。




















ここの店のおばさんと話をした。「最近は楽器もいろいろなものがあり、三味線や琴をやる人が少なくなってきた」と嘆いていた。店に三味線の長い竿の先端には蒔絵などのきれいな装飾が付いているものが並べられていた。
琴の大きな甲がウィンドウの中にたくさん置いてあったが、おばさんの父が、昔ここの2階で大きな桐を削りだして作っていたと言っていた。大変な職人技であったことが想像される。
大きな楽器だから持ち運びが大変なこともやらなくなっている原因でもあると言っていた。
日本伝統の邦楽も見直し、もっと盛んにやっていってほしいものである。特に伝統文化の残る金沢においては。




















続いて、真宗大谷派の「慶覚寺」に行った。ここは、あの有名な高尾城(たこうじょう)を攻めて大将格として富樫政親を滅ぼした洲崎兵庫(慶覚)が創建した。




















5年位前に改築したらしいが、境内に以前の屋根にあった大きな鬼瓦が置いてあり、「寺紋」が付いていた。




















また山門の裏手になぜか江戸後期の俳人で、蕉風の成田蒼きゅうに師事した「桜井梅室」の分骨が葬られている墓があった。


























続いて 宝憧寺に行った。ここはもと越前府中にあったが、2代藩主利長がこの地の招いた。木彫りの十一面観音立像は藤原期の作といわれる。金沢の三十三観音の寺めぐりの第一番札所である。








































宝憧寺の近くに「藤岡作太郎生家跡」の碑が建っているはずだということで一生懸命探したが見つけることができなかった。藤岡作太郎は四高の三太郎の一人で、西田幾多郎や鈴木大拙と仲がよく、「東圃」(とうほ)の号で有名である。ゼンソクの発作と闘いながら国文学を新手法で研究した人で、平安文学にメスを入れた「国文学史 平安朝篇」、「国文学史講和」、「近代小説史」などを出している。
この近くの通りは旧町名「早道町」といって、藩政期に足軽の飛脚が居住している組地があったところだ。飛脚のことを早道と呼んでいたためこの名がついたという。





















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