2014年10月31日金曜日

兼六園 千歳台(1)明倫堂、経武館、竹沢御殿

山崎山周辺から千歳台に行くところに「花見橋」という橋が架かっている。ここの橋から眺める花の眺めがすばらしいことからこの名が付いている。特に5月にはカキツバタが咲く頃は非常に見ごたえがある。










































「兼六園」より



この橋は擬宝珠(ぎぼうし)の欄干があり、左右の袂に板挟み石が置かれている。




















この橋を渡ると「千歳台」の広大な敷地に出る。ここは霞が池や曲水、芝生の中に名木の松や桜などが植えられている。




















ここは江戸時代の前期には加賀藩の武家屋敷になっていたが、11代藩主の冶脩が家臣の教育のために藩校の「明倫堂」と「経武館」を現在の金沢神社および金城麗澤の辺りから梅林にかけての地に建てた。
「明倫堂」は身分を問わず、8歳以上の男子が入校できた。科目は儒学を中心に、漢学、算学、医学、天文学などがあった。また「経武館」は武芸に鍛錬を目的としており、剣術、弓術、槍術、馬術などがあった。




















初代学長の新井白蛾(はくが)が京都から招かれ、白蛾が書いたという「明倫堂」の扁額が「ふるさと偉人館」で「加賀藩の教育」というテーマをやっていた時に飾られていた。ちなみに「経武館」は加賀八家の前田直方の書いた額が掲げられていたという。




















もうひとつ幕末に藩校として「壮猶館」が建てられているが、ここは、この頃に外国船が日本近海に姿を見せるようになっため、海防目的で建てられた洋式兵学校である。西洋砲術、洋学、航海学、測量学、英仏蘭語などの語学などを教えた。「壮猶館」は今の「知事官舎」あたりにあり、現在はその玄関の建物だけが残っている。




















12代藩主斉広は加賀藩の財政が苦しいにもかかわらず、「明倫堂」と「経武館」を別の場所に移し、この「千歳台」辺りに自分の病気を理由に壮大な隠居所「竹沢御殿」を建てた。
「竹沢御屋敷絵図」を見ると、兼六園のかなりの部分を占める大きな御殿ということが分かる。それが、藩主斉広が「竹沢御殿」ができて2年余りで亡くなったので、その後の13代藩主斉泰はその御殿を順次壊していき、少しずつ今の兼六園の状態に変えていったという。この「竹沢御殿」を建てた無駄遣いは今では考えられない話で、藩主が好きなことを思うままにやっていたのかと思う。しかしこの斉広は政治改革を積極的にやった藩主でもある。
竹沢御屋敷絵図

















市立玉川図書館蔵


12代藩主斉広は竹沢御殿の寝所で亡くなり、その場所に枕石が置かれていたが、その石を踏まないようにと「地蔵堂」が建てられた。この中に2基の石像地蔵が安置されており、安産、出世、眼病を治療する地蔵として信仰されている。
8月24日に毎年、近くの茶店の人たちを中心に「地蔵尊まつり」が行われている。今年の「地蔵尊まつり」に私も見にきたが、その時には扉が開かれ、中の2基の石像を見ることができた。カメラを持っていかなかったので残念ながら紹介することはできない。

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2014年10月26日日曜日

兼六園 山崎山周辺

今回は、以前このブログで少し紹介した山崎山の周辺を散歩した。
成巽閣の前の花見橋の横を山崎山方向に歩いていくと曲水の中に「鶺鴒島」という島がある。ここには「三社」と刻まれた石額がかかる鳥居があり、その奥を聖域としている。この島は「神の島」として造形され、子孫繁栄の願いがこめられているという。




















島の中央の真ん中の歌碑を挟んで右側が女性、左側が男性の陰陽石が並び、誕生を表す。石の後ろには右が雌、左が雄の相生松が植えられ結婚を意味している。島の右端に立つ五重塔は墓で、死を表しているという。
ここの樹木、庭園工作物、自然石など非対称の組み合わせを全体として均整のとれた日本庭園となっていて、この配置の妙は他の庭園には見られないものだという。
反対側から見た鶺鴒島




















鶺鴒島の前のすぐ傍らに「五葉松」がある。葉が5本あることからというが、県内でも最大級の大きな「五葉松」であり、枝はいくつも分かれており、幹から枝とも激しくねじれている。
「鶺鴒島の陰陽石を見てヤキモチを焼いたからねじれている」という面白い説がある。


























曲線の上流のほうに少し歩くと背の高い灯篭があるが、これが「蓮華寺型灯篭」である。京都の蓮華寺といえば加賀藩重臣の1万石を超える今枝家が再建したことで知られているが、この寺の本堂前に建っているものとよく似ているという。(京都の蓮華寺には10年位前に訪れたことがある)


























このあたりの曲水は名前の通り非常に曲がりくねって流れている。




















山崎山に登る手前に土橋風の風雅な木橋が架かっている。




















木橋付近から山崎山の裾の方を眺めると、岩間から勢いよく清水が流れ出て川幅が広い曲水となっている。ここは辰巳用水が兼六園に流れ込んでいる入口だ。この辺りは木々が生い茂り、幽邃の境を呈していて兼六園の見所のひとつになっている。




















鶺鴒島のほうに戻り、右手にはいくつもの自然石があるがこの中に「龍石」がある。これが龍石かと思ってみないとどれかよく分からない。兼六園内の三つの要石のひとつであるが、これらは兼六園を守護する「魔除けの石とされている。そのそばに「龍石の椿」という珍しいヤブツバキもある。




















龍石の後ろのほうは山崎山下の苔地となっているが、ここには明治の初めにドイツの鉱山学教師のデッケンが住んでいた異人館があったところだ。その後、この建物は勧業博物館となり、明治末期にその建物も撤去され、跡地を苔庭にし、前方の山崎山がよく見えるようにしたという。




















明治の頃にここが勧業博物館東館で、現在の成巽閣があるところが西館であったころで、それを繋ぐ眼鏡橋が架かっていて、その橋のレンガ造りの遺稿が今でも成巽閣の横に残っているのがそうだと聞いたことがある。

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2014年10月21日火曜日

木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり(2)

木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり(1)の続きで、「道の駅メルヘンおやべ」を出て、次に急な階段を上って「倶利伽羅不動寺」へ行った。




















ここの本堂には弘法大師が奉安したという倶利伽羅不動尊が祀られており、日々護摩法が修法される境内の中心である。何度かの災厄により明治以降は本堂と呼べるものはなかったが、昭和25年以降に金沢の天神橋の袂にある了願寺より忠魂祀堂を運んできて建立されたという。この了願寺には、琵琶を持った像があることを卯辰山に上る時に何度も見たことがあり気になっていた所である。




















施無畏堂(せむいどう)はさまざまな苦難や災害にみまわれる人たちの迷いや不安を取り除き、安心を与えてくれる仏様のお知恵を授かるお堂だそうです。
この堂の入口にある二本の錫杖は、これを持ち上げ「南無大日大聖不動明王」を唱えながら三度振り下ろすと、人々のこれから進む前途の苦厄を払い除け身体を守るという。





















高さ8mの朱塗りの五重の塔があったが、中央に金剛界大日如来をお祀りし、塔の中には信徒各位の写経が納められている。



























五重塔の先からは、砺波平野が一望できた。天気が良いと立山連峰も見えるという。




















この辺りは倶利伽羅古戦場として有名であるが、これは1183(寿永2)年に木曽義仲軍が平惟盛りを破った戦いをいう。
木曽義仲は京都を目指して北陸路を進軍し、十万の兵を率いる平惟盛と加賀・越中の国境の倶利伽羅山で対戦した。埴生護国八幡宮で戦勝祈願し、夜半に四万の兵をもって一斉に攻撃を開始した。


























この時、義仲軍が法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、、奇声をあげ、四、五百頭の牛の角に松明をつけて暴走させる火牛攻めを行い、寝ていた平氏軍は大混乱し、折り重なるように谷底に落ちたという。これが「源平盛衰記」に載っているという面白い話である。




















続いて、津幡町にある「倶利伽羅神社」にいった。





















ここの宮司さんの家にある池田九華作の「源平倶利伽羅合戦図屏風」を見せてもらった。




















埴生護国八幡宮で戦勝祈願した義仲が平家軍の様子を聞いているところ。





















「火牛の計」で平家軍が谷底に落ちていくのが描かれている。




















この絵の中に、女武者の「巴御前」が描かれていた。鎧冑を身に着けて勇敢に戦っているが、冑を脱ぐと長い黒髪をなびかせた大変な美人であったという。
そういえば「木曽義仲と巴御前」の大河ドラマ誘致の話はどうなったのであろうか?大河ドラマになれば、津幡町も小矢部市も活気付くでしょうね。




















今回のバス旅行で「木曽義仲と倶利伽羅合戦」について、いつもながら面白い話をしてくれる東四柳先生のおかげで、いろいろ知ることができ大変よかったと思う。
機会があったらまた、こういうイベントに参加したい。

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2014年10月17日金曜日

木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり(1)

今回は石川県民大学校の「ふるさとモット学び塾」の一環として「木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり」に参加した。
朝8時半に「本多の森庁舎」に集合し、30人くらいでバスに乗って倶利伽羅方面に向かった。説明してくれるのは金沢学院大学の東四柳先生で中世の石川の歴史についての第一人者である。

まず今の伏木駅付近の小矢部川沿いにある「如意の渡」を見学した。ここは義仲が5万の兵を駐屯した六渡寺から倶利伽羅方面に行く際に渡ったところであるという。
また、忍んで義経が奥州に行く途中で、ここを渡る際に見破られそうになり、とっさに弁慶が義経を打ちのめしたということが軍記物語「義経記」に書いてあるということである。これに基づく像があった。




















この話が謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」になったというが、私らがよく知っている話の「安宅の関」とはどういう関係にあるのかよくわからない。

続いて、木曽義仲の祈願社として知られる「護国八幡宮」に行った。




















ここは奈良時代に宇佐八幡宮の御分霊をしたのが始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代の末に木曽義仲が埴生に陣をとり、平家の大軍と決戦するにあたりここで祈願をし著しい霊験があったという。
戦国時代には武田信玄、佐々成政、遊佐義親などの祈願や社領の寄進が続いた。江戸時代には加賀藩主前田家の祈願社となった。




















社殿は本殿、釣殿、弊拝殿の三棟からなっており、国指定重要文化財になっている。








































この社殿の近くには「宝物殿」があり、中には戦国から江戸時代にかけての歴史を伝える貴重な古文書が展示されていた。残念ながら、中はカメラ禁止だった。




















境内には馬に乗った勇壮な木曽義仲像があった。これは皇居外苑にある「楠木正成像」とよく似ていて立派な像だ。
木曽義仲は源平争乱の時代に、北陸道を駆け抜け上洛の夢を果たし、平氏を京都から西国に追った源氏の武将で、歴史の中でその活動が確認できるには4年足らずであるが、疾風怒濤のごとき軍事行動から「旭将軍」として「平家物語」に出てくる。




















また、源平合戦の折、倶利伽羅山中で源氏軍が八幡神の御使いである白い鳩の導きによって、源氏勢が喉の渇きを潤し勇気を鼓舞したという「鳩清水の滝」を水源とする清水が御手洗違石鉢に注いでいる。




















この後、「道の駅メルヘンおやべ」に入り、昼食をとった。ここで自慢の「源平火牛(牛すじ)煮込みごはん」を食べたが、量が多くて食べ切れなかった。


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2014年10月10日金曜日

東北地方南部ドライブ(10) 米沢、喜多方

東北地方南部ドライブ(9)の続きで、次の日、米沢城跡の堀の外にある「松岬神社」に行った。
ここはもとは直江兼続の屋敷のあったところだという。




















ここは、米沢藩の危機を救い再生のきっかけを作ったといわれる江戸時代屈指の名君といわれる「上杉鷹山」が祀られている。
アメリカ大統領だったケネディーやクリントンも「日本で最も尊敬する政治家」と言っている。
「なせばなる なさねばならぬ 何事も」の名言はあまりにも有名である。この人のことはあまり知らなかったので、後日、時間を見て何をやったのかもっと知ろうと思っている。




















次に「上杉博物館」に入り、上杉家の歴史を学び、上杉家ゆかりの資料やお宝を拝見した。館内はカメラ禁止だったので展示物を紹介できないのは残念。




















また、その近くの「上杉城史苑」に入り、昔、出張の際に飲んだ「高畠ワイナリー」で作ったワインや米沢牛を使った食品をみやげ物として買った。




















続いて、米沢を南下し福島県に入り喜多方に行った。
ここで有名なのは何といってもラーメンで、博多、札幌と並び、日本の3大ラーメンとして知られている。金沢でも何かのイベントの際に屋台で喜多方ラーメンを何度か食べたことがある。
すぐに目に入った店の「たんぽぽ亭」に入りラーメンを食べた。腹が減っていたこともあるが、相変わらずおいしかった。さすが本場「喜多方ラーメン」の味であった。




















喜多方が「蔵の街」ということを知らなかったが、ラーメンを食べた後、街を散歩すると、所々に蔵がたくさんあった。まず目に付いたのはレンガ造りの蔵があった「若喜商店」である。




















ここは1755(宝暦5)年創業から12代続く、味噌、醤油を製造していて国の登録有形文化財になっている蔵もあるという。




















店の中に入ると、お婆さんが喜多方の蔵のことやここの店のことについて親切に説明してくれた。




















その後、両側に蔵がたくさん並んでいる通りをぶらぶら歩いた。




















そして「若喜商店」で聞いた喜多方の町で最も大きいというやはり国の登録有形文化財になっている「甲斐本家蔵座敷」に入った。ここは初代が酒造り、三代が麹と製糸で財をなし、四代が味噌、醤油を営んできたという。




















四代が作ったという蔵座敷や蔵にマッチした庭や重厚な黒漆喰で塗られた蔵があった。








































この後、会津若松方面への国道を通り、磐越自動車道から新潟を経て順調に金沢に戻った。
今回のドライブは福島、宮城、山形の3県の観光地を巡ったが、歴史のある街やいくつかの大自然もながめられ、天候にも恵まれ楽しい旅であった。百万都市仙台をゆっくり見れなかったのは残念であったが、後日、七夕祭りの時でもゆっくり行きたいと思う。

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