2015年5月9日土曜日

石川県立歴史博物館 前田家の参勤交代(1)

今回は、4月17日にリニュアルオープンしたばかりの、出羽町にある「石川県立歴史博物館」に行ってきた。




















この建物は、明治末期から大正初期に全国に建てられた陸軍省の兵器庫のひとつで、3棟の建物はいずれもレンガ造り、2階建てで、90mの長さがある長大な建物で、全国各地に残る兵器庫は細部は若干違いがあるが、基本的に同じなので陸軍省の設計部門があって、それに従って建設されたとものと思われるという。現在残っているのは全国で4箇所だけで、完全な形で残っているのは、金沢と善通寺(香川県)だけだという。
戦後は美術工芸大学として使われていたが、現在は石川県立歴史博物館として開館されている。今回のリニュアルで、3棟のうちの2棟は石川県立歴史博物館で、もう1棟は、以前はこの建物の横にあった「藩老本多蔵品館」が名前を変えて「加賀本多博物館」として入っている。




















建物と建物の間に、用水に使われた石管を再生して辰巳用水の流れを表現していた。




















館内は、以前より明るい雰囲気になり、常設展室と特別展示室がある。その他、歴史体験コーナーや歴博ミュージアムシアター、所蔵資料、図書などもあり、くつろぎながらコーヒなどが飲める「ほっとサロン」などもあった。








































今回は、北陸新幹線開業イベントとして「江戸と金沢 北国下街道を歩いた人びと」というテーマで「加賀藩前田家の参勤交代」について展示されていた。




















北陸新幹線のルートと、この参勤交代のときの北国下街道から中仙道を通るルートは大変よく似ている。




































このルートは、私が少年時代も、会社に入って東京で勤務していた時も「金沢ー東京間」を最初は急行「白山」、続いて特急「白山」になってからも何度かこのコースを通ったので非常に馴染みがある。最初に乗ったのは昭和30年代前半で、そのころは10時間くらいかかったという記憶がある。昔の「田口駅」今の「妙高高原駅」付近と「アブト式」だった「碓氷峠」付近は、非常にのろのろと走っていた。
しかし、今や2時間28分で着いてしまう。
でも江戸時代の「参勤交代」はすべて歩きなので、通常は12泊13日かかったというから、比べものにならないくらい早くなり便利のなったものである。




















「参勤交代」とは、江戸時代に諸大名が原則として1年おきに江戸に詰めるために、江戸と国許を交互に行き来した制度をいう。国許から江戸に出府するのが「参勤」、江戸から国許へ帰るのが「交替」という。
「参勤交代」は、譜代(ふだい)、外様(とざま)など大名の格によって参勤のシーズンが異なっていた。徳川家光は1635年(寛永12)年に出した武家諸法度(ぶけしょはっと)によると、外様大名は4月、譜代大名は6月、8月の交代が制度化されたという。前田藩は3つのルートをその時々で変えて利用している。他のルートは「北国上街道」から中山道を通るものと、「北国上街道」から東海道を通るルートがあったが、参勤交代合わせて190回のうち181回は「「北国下街道」から中仙道を通るルートだったという。




















これは、3代将軍家光が各藩の大名に自らの力を示すとともに、必要以上の蓄財をさせず、有力藩の対抗勢力化をそぐことを狙った制度であるという。
100万石の大名である加賀藩前田家は、中でも最も盛大な参勤交代を行った。その行列は、1回につき最小でも2000人、最多(5代綱紀のころ)では4000人くらいの隊列であったという。加賀藩の場合、1回につき食費、宿泊費だけでも約2億円以上使ったといわれている。