2015年9月24日木曜日

金沢城の石垣(1) 自然石積み 辰巳櫓付近

今回は、金沢城の石垣について見てきたので紹介します。
金沢城の石垣は前田利家が入場してから明治維新まで、いろいろなタイプの石垣が作られたので「石垣の博物館」といわれ、いろいろな石垣の積み方を楽しむことができる。どうしても城の建物に目が行きがちだが、石垣にスポットを当てて注意深く見るのも面白い。




















下図は今から100年少し前の百間掘りの写真であるが、この頃までは堀に水が満々とあり、現在の金沢人が見ても驚きの写真である。




















百間掘り側の石垣は、文禄元年に前田利家は豊臣秀吉の命で征韓軍に加わり名護屋(佐賀県)にいた時に、金沢の尾山城の留守を預かっていた長子利長が利家から指示を受けて、ここの高石垣の改造をおこなっている。




















しかし、ここの下から上部までの高石垣の工事は難航を極め断念してしまった。それで、前田利家は普請の高い技術を持っている「篠原出羽守」に任した。「篠原出羽守」は、小段(犬走り)を付けた2段の石垣を完成させた。利長は2段の石垣を作るのなら簡単にできたと地団駄を踏んだという。
「篠原出羽守」は、後に利常の命を受けて「外惣構掘」を作った人である。




















その後、元和期に3段目が積まれたようで、明治になって補修されたらしい。「篠原出羽守」が積んだ石垣は「自然石積み」といって、石切り場から採集した自然のままの石材を積み上げたもので、通常は「野面積み」と呼ばれる。




















百間掘りの高石垣は高い位置にありちょっと見づらいが、「自然石積み」の代表的なものは、丑寅櫓下の東の丸北面の石垣のところははっきり分かる。




















「文禄石垣」は隙間だらけで、石と石の間に大きな間詰石が入っていて、無操作に作られた印象があるが、排水がよく、構造的にも安定していていという。400年経った現在でもその雄姿を保っている。壊れそうで壊れない強さを持っている。




















辰巳櫓の下は現在4段の石垣になっているが、江戸時代は上から下まで一つの高石垣だった。明治の頃に金沢城内に入っていた陸軍が手を加えたことより取り壊されてしまったという。明治40年頃の写真を見るとその様子が伺える。




















現在の4段の石垣の下から2番目の石垣が上まであった高石垣だったという。その上に辰巳櫓があったので、現在の空中上にあったことになる。ここの辰巳櫓を再現するには石垣から作らなければならない。




















辰巳櫓の左側部分は、現在下から2番目の石垣の高さしかないが、以前は一番高い所までずっと石垣があったという。ここは慶長年間に作られたので「慶長石垣」と呼ばれている。2代前田利長が藩主をしていた頃になる。
慶長石垣の特徴は築石部分が割石中心になっている。割石は自然石を矢で割っただけの石であり、自然石の野性味も残したままのものであるという。




















角石は元禄石垣も割石を使って既に「算木積み」になっていたが、さらに慶長石垣では、この「算木積み」が発達し、直方体の大型石垣を上下交互に積み上げ、最初はゆるい勾配とし、上に行くに従い勾配がきつくなる。











「よみがえる金沢城」より








ここの本丸南面石垣の前には、「切石」や「角石」などの説明書きやサンプルの石などが置いてあった。