2015年11月7日土曜日

東外惣構堀(2)賢坂辻 材木町

東外惣構堀(1)の続きでその先を歩いていくと「賢坂橋」(藩政期は八坂総構橋)があるが、ここで「源太郎川」と合流する。
坂になっているので土居があった名残だろうか?




















その「賢坂橋」の近くの石垣の内角にここにも「延命地蔵尊」があった。




















書家で有名な「北方心泉」の「常福寺」の裏を通り、「兼六大通り」の下を流れている。ここも緩い坂になっている。藩政期にはここに「剣崎辻橋」があった。




















この大通りの脇に「賢坂辻」の標柱があった。久保市乙剣神社と椿原神社の氏子の地境であり、また丘陵地の先端であることから昔は「剣先」と呼んでいたが、明治になって「賢坂辻」と改めたという。



























「敬愛病院」の間を通り抜けている。この東外惣構堀は、現在はどこも大変狭くわずかな流れとなっている。




















「梅の枝橋」辺りには「徳田秋声生家跡」があり、加賀八家横山家の下屋敷があった所である。




















徳田秋声はこの地に3歳まで居て、その後、東京に行くまでに金沢の中で4回も転居している。




















その先に「上土橋」があるが、ここは藩政期に「備中橋」があった。




















この辺りは「材木町」というが、その名前の由来は元和2年に紺屋坂付近にいた町民が城郭修築用木材を宮腰港から運搬した功で材木を与えられ、この地に移転したことからこの名が付いたという説と、藩政初期の大火で焼けた後に藩から賜った木材を使って町立てをしたからという説がある。


























ここに「材木町小学校」があるが、ここは来年「味噌蔵町小学校」と合併することになっている。発足はかなり古く、明治6年に市立椿原小学校として始まったが、明治22年から材木町小学校となり、戦後までここは男子ばかりの小学校で、女子は味噌蔵町小学校であったという。
私が何といっても記憶にあるのは昭和31年のここの火事である。小学生だった私は家の前で真っ赤な炎が真っ直ぐ上のほうまで上がっていて、その中に満月の月が橙色になっているのを今でも覚えている。そして全焼した材木小学校の6年生が私の小学校に一時通っていた。今の建物はそのとき建てたものだからもう60年近くになる。