2016年7月15日金曜日

2016東京ドライブ(6) 板橋(旧加賀藩下屋敷跡)

次の日 板橋(旧加賀藩下屋敷)に行くことにし、「いたばし観光センター」に向かった。場所を見つけるのに苦労したが、何とかたどり着けた。
「いたばし観光センター」内に展示されている「旧加賀藩下屋敷」の地図を見ながら説明を受けた。1680(延宝8)年には、加賀藩前田家は本郷邸を上屋敷に、馬込邸を中屋敷に、そして板橋宿に面する平尾邸を下屋敷に定めている。下屋敷の平尾邸は、約28,000坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸にある大名屋敷では最大の大きさを持っていたという。邸内には上石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝など配された池泉回遊式があった。その規模は、兼六園の約7倍の広さがあったという。




















邸内には与力を筆頭に大半は定番足軽など、ここを管理する50人ほどだけがが詰めていて、ほとんどは上屋敷の人たちの食料などを作っていた。この平尾邸は、通常は藩主とその家族の別荘として使われており、彼らが保養、散策に訪れ、時には鷹狩や花火なども行われていたという。


























今回は、ここのボランティアガイドさんに案内してもらった。金沢市と板橋区は「友好交流都市協定」として締結している。百万石行列には、毎年、5代綱紀役が板橋区の人がなっている。この人も、去年に綱紀の付き人役として参加したという。




















当時の跡は何も残っていないが、この付近には「金沢」や「加賀」などの地名が多く残っている。
下図は「金沢小学校」




















「金沢橋」




















上石神井川の畔には「ことじ灯篭」が置かれていた。




















屋敷内の庭園の築山の跡は「加賀公園」になっており、「友好交流都市協定」締結を記念して建てられた「尾山神社神門」のステンドグラスを模して建てられた記念碑があった。








































また、この公園一帯は明治から終戦までは、火薬を製造する大きな板橋火薬製造所があった。明治9年に完成し、この火薬製造所で使われた「圧磨機圧輪記念碑」があり、これは実際に上石神井川の水を利用し、火薬製造に使われていた実物であるという。この材料はヨーロッパ産の大理石で、幕末の重臣が藩命を受けてベルギーから購入したものという。
この地が火薬製造所となったのは、加賀藩士で洋学に通じていた「佐野かなえ」が、当時の兵部省の造兵部門の長やっていた関係からの可能性があるという。




















当時使われていた火薬を運ぶための電気軌道(トロッコ)線軌道や火薬の試射をして検査するための長い鉄管なども残っていた。









































この近くに「野口研究所」の建物があったが、旭化成創業者の野口遵(のぐちしたがう)が設立した電気化学の開発研究所であった。野口遵は、加賀藩士の長男として生まれ、生後まもなく東京の加賀藩邸に移った。帝国大学工科大学を卒業した後、日本窒素肥料(現チッソ)を設立したり、朝鮮半島にいくつもの水力発電所や巨大な化学コンビナートなどを建設し、「電気化学工業の父」と呼ばれている。




















藩政期には、この加賀藩下屋敷が中山道板橋宿に近いことから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場所としても利用されたり、また、その家族や家臣などの送迎の場ともなっていたという。