2016年7月19日火曜日

2016東京ドライブ(7) 富岡製糸場①

2016東京ドライブ(6)の続きで、その後東京を離れ、関越自動車道から信越高速道路を通って、前から行きたいと思っていた世界遺産になっている「富岡製糸場」に行った。というのも、ここは日本初の官営の製糸工場として1872(明治5)年に操業開始したしたところあるが、金沢の「尾山神社の神門」は、加賀藩士だった「長谷川準也」が明治維新で寂れた「金沢再生」のために「あっと言わせるものを造ってほしい」と大工の「津田吉之助」に設計を頼んで造らせたものである。吉之助は当時の「富岡製糸場」や東京の銀行などの建物を見に行き、参考にして設計して奇抜な建物を造ったと聞いていたので、どんな建物か見たいと思っていた。




















「富岡製糸場」は、明治政府が近代国家成立のために殖産興業政策の基づき西欧の先進技術を導入して本格的な器械製糸工場を建設した。その当時は製糸は貿易で需要が高く、外資獲得のため重要な輸出品で、政府が高品質な製糸を大量生産できるようにしたするために設立した官営の模範工場である。




















工場建設はフランス人の人が行い、建設資材は群馬県内で調達した。建物はほとんどが創業当時のまま保存されており、2014年6月に「世界遺産」に登録された。




















同時に「田島弥平旧宅」など3施設が登録された。田島弥平は養蚕指導書「養蚕新論」を書いた人で、養蚕には通気が重要と蚕の飼育を考えたという。旧宅には屋根に通気用の総櫓が設けられているという。


























「荒船風穴」は年間を通して岩の隙間から冷風が吹いていて、石積みの建屋を造り冷気を封じ込め、蚕種(卵)が産みつけられた種紙を貯蔵した施設である。


























ここもガイドさんの説明を受けながら回った。「東繭倉庫」や「西繭倉庫」の建物はレンガ造りで、和洋折衷の技術が取り入れられている。長方形のレンガは長手と小口が互い違いに組まれていおり、主要な部分に木製の柱があり、強固な建物になっているという。




















「繰糸工場」は、長さ140m、幅12.3m、高さ12.1mあるが、真ん中に柱がなく、空間の広さが実感できる。これは三角形の枠組みが屋根を支える「トラス構造」となっているからだという。大正9年まで電気が通っていなかったため、採光用に大きなガラス窓が取り入れられていた。




















その下には、現在は操業していないのでビニールが掛けられていたが、多くの製糸器械が並んでいた。




















「繰糸工場」の外観は和風の雰囲気がある。




















当時は「お雇い外国人」が「富岡製糸場」に来ていて、指導していたという。


























また、当時は300人の工女いたが、見習として全国各地から来ていたという。なかでも滋賀県の人が多く、石川県からも2人の人がいたらしい。ここで習って地元の製糸工場が出来たときに指導者として活躍したのであろう。この「富岡製糸場」の何年間後に「金沢製糸工場」ができているが、ここの女工として働いた人が指導者となったのであろうか?




















その後は、最先端の器械を導入していき、操業停止時には日本の技術力によって作られた自動繰糸機が活躍したという。