2017年1月2日月曜日

信州ドライブ(2)北国街道 関川関所①

信州ドライブ(1)北国街道の続きで、その後、「新井宿」、「二本木宿」、「関山宿」、「田切宿」を通った。
下図から「高田宿」から「関川宿」まで標高約500mもの高さをずっと上り坂で、江戸時代はこれを歩いて上ったのだから、さぞ大変だったことが想像される。




















この辺りには信越本線が走っているが、勾配が急なために珍しいスイッチバックの駅があり、その駅跡(二本松駅)が残っているという。




















妙高高原は深い浸食谷があり、この地形を「田切」と呼ぶが、今は大きな橋が架かり一気に通れるが、北国街道は田切を大きく下りってまた上がるという最大の難所だった。参勤交代ではたくさんの荷物を持って歩いていたので、荷物を馬に載せたり、降ろしたりもしただろう。




























「上原宿」には、旅籠ロウソク屋が幕末の志士清河八郎が泊まったことが日記に記されている。当時の建物はないが、旧家の庭園が残っており、心字池には巨石が残っていた。




















続いて、「関川の関所」に入った。ここは、加賀藩などの参勤交代と佐渡の金銀を江戸に運ぶ重要な街道になっていたため、厳しい取り調べの関所になっていたという。








































ここに「関川関所 道の歴史館」の建物があり、資料がいろいろ展示されていた。




















「関所の取り調べ」では、手形は関所を通るための通行許可証で、身分、旅の目的などが描かれたもので、「手形改め」が偽りがないか確認する。江戸に鉄砲などの武器が流入しないように、許可された手形を持っているか確認する「鉄砲改め」、女性の場合は特に厳しく、女手形を持っていない場合は絶対通れなかった。特に江戸からの「出女」(でおんな)は厳しく調べられたという。




















「出女」の取り調べイメージ




















宿場には、人馬継立の事務を行う問屋場が中心で、その周辺に本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設や商店が並んでいた。宿場の財政は、参勤交代の大名や一般旅行者の人馬継立や宿泊による収入によって賄われたが、江戸中ごろになると一般旅行者が増え、宿場はにぎわったという。




















下図は東海道のある宿場の本陣に大名行列が到着した時の様子で、非常ににぎわっていたのが分る。




















庶民が旅先で利用できるのは旅籠か木賃宿に限られていて、宿場には本陣とともに必ずこれらが並んでいた。旅籠が普及したのは、伊勢詣でや善光寺詣などの旅行者が増加した江戸時代の中ごろからで、それ以前は木賃宿が主流だったという。