2017年1月6日金曜日

信州ドライブ(3)北国街道 関川関所②

信州ドライブ(2)北国街道の続きで、ここ「関川関所の道の歴史館」には、他にもいろいろ展示されていた。
庶民の男性と女性の旅姿(この姿なかなかかっこいいと思う)




















旅人の携帯するものが展示されていた。夜の明り取りのための「がん灯」や「煙草入れ」、「キセル」などが並んでいた。




















「関川の関所」には、さらに佐渡でとれた金を江戸へ運ぶ際の3ルートの一つで、この関所で厳しく取り締まったということが展示されていた。
佐渡の金、銀は江戸時代には全国の産出量の半分くらいはあったという。5~10万に人が金を求めて佐渡に渡った。そして、江戸幕府が天領(直轄地)として、佐渡金山奉行を置き管理していたという。
佐渡鉱山から掘り出された金銀は、貨幣に鋳造された後の御金荷(おかねに)として箱詰めされ、舟で運ばれ陸揚げされ、馬で搬送され、北国街道、三国街道、会津街道のどれか一つを使い、江戸城内の御金蔵に運ばれた。こうして運ばれた佐渡の金銀は、幕府の重要な財源として江戸経済を支えていたという。




















最初は、なぜここに「きんさん、ぎんさん」の像があるのか最初は分からなかったが、佐渡の金銀が運ばれた街道の姥坂に座像があった。




















この関所跡のすぐ近くに「加賀藩本陣跡、明治天皇行在所跡」があった。ここは、関川宿にある本陣で、加賀藩はじめ九つの大名の本陣として門、玄関、上段の間の設置が許された。1879(明治11)の明治天皇の北陸行幸に際して、行在所(宿泊所)となったが、その後の火災により、建物は焼失したが、庭は残っている。




















大石家の庭園は、小堀遠州の指導を受けたといわれ、池泉回遊式の庭園は当時として屈指の規模を持ち、旧家にふさわしい風格を備えているという。




















池の東側に位置する長範山を借景とし、関川の清流を眺めることができるところに茶室があり、茶人・歌人を招いての催しも開かれていたという。





















北国街道の通りの向かい側に北林山「浄善寺」というお寺がある。ここ住職は寺小屋の師匠で俳号を「指月」といい小林一茶と親交があった寺で、この寺で句会がよく行われたという。




















階段を上がった境内に「指月上人の位階上りけるを祝して いたれりや仏の方より花衣」の小林一茶の句碑があった。寺の中には親鸞聖人ゆかりの松で作った親鸞聖人像と親鸞聖人が念仏を書いたきょうせきがある。




















寺の裏の方には、さらに上の方に上る階段があり、杉の大木とお墓が数多くあった。